飲食店開業物語 第7章 最初の一台が厨房に入った日
公開日:2026/07/10 更新日:2026/07/10冷蔵庫が届く朝、店主は予定より一時間早く店へ来た。
入口から厨房までの床には養生材を敷いた。
通路に置いていた道具も移動した。
メジャーでもう一度入口を測った。
昨日も測った。
その前の日も測った。
数字が急に変わることはない。
それでも測った。
午前九時を少し過ぎたころ、店舗前にトラックが止まった。
店主は、思わず背筋を伸ばした。
荷台の扉が開く。
中には、写真で何度も見た冷蔵庫があった。
写真で見るより大きく見えた。
そして、想像していたより重そうだった。
「これ、本当に入るんですよね?」
店主が聞くと、佐藤さんは笑った。
「何回も測ったんでしょう?」
「七回くらい」
「じゃあ、数字を信じましょう」
友人も到着し、作業が始まった。
冷蔵庫を荷台から下ろし、台車へ載せる。
段差を越えるたびに、全員の声がそろった。
「ゆっくり」
「右、少し右」
「止めて」
店舗入口を通る瞬間、店主は息を止めていた。
冷蔵庫の側面と入口の間には、余裕がある。
分かっていた。
測っていた。
それでも、実際に通り抜けたときは拍手をしたくなった。
厨房の曲がり角も通った。
設置場所まで運び、向きを整える。
床に貼ったテープの内側へ、冷蔵庫がぴたりと収まった。
「入った……」
誰よりも店主が驚いていた。
電源を入れ、しばらく様子を見る。
庫内の温度が少しずつ下がっていく。
低く静かな機械音が、空っぽだった厨房に響いた。
それは大きな音ではなかった。
けれど店主には、店が動き始めた音に聞こえた。
何もなかった厨房に、最初の一台が入った。
壁際に冷蔵庫があるだけで、そこは急に「料理を作る場所」らしくなった。
友人が言った。
「やっと店っぽくなってきたね」
店主はうなずいた。
冷蔵庫には少し傷がある。
新品の輝きはない。
それでも、きちんと冷え、予定した場所に収まり、これから毎日食材を守ってくれる。
十分だった。
店主は冷蔵庫の扉を開けた。
まだ何も入っていない庫内に、冷たい空気が流れていた。
そこへ食材が並ぶ日を想像する。
開店まで、あと九日。
厨房はもう、空っぽではなかった。