開店前日の夜。
店主は、一人で店に残っていた。
冷蔵庫には、明日使う食材が並んでいる。
作業台の上には、包丁、まな板、調味料。
食器棚には、何度も選び直した皿とカップ。
少し前まで何もなかった厨房に、必要なものがそろっていた。
店主は仕込みを終え、カウンター席を一つずつ確認した。
椅子はまっすぐ並んでいる。
メニューも置いた。
入口の看板には、明日の開店時間が書かれている。
準備はできている。
たぶん。
「たぶん」が付くあたりに、店主の不安が残っていた。
お客様は来てくれるだろうか。
料理を待たせすぎないだろうか。
注文を間違えないだろうか。
冷蔵庫は、明日もきちんと冷えてくれるだろうか。
考え始めると、心配は次々に増えた。
厨房機器を選んでいたころは、機械がそろえば安心できると思っていた。
しかし、そろったらそろったで、今度は店を開けることが怖くなった。
人の不安は、空いた場所を見つけるのが得意だった。
店主はコンロに火をつけ、小さな鍋でスープを温めた。
明日お客様に出す予定のスープ。
一人分を器に注ぎ、客席へ運ぶ。
そして、店の一番端の席に座った。
自分の店で、自分が最初のお客様になった。
スープを一口飲む。
少し塩が足りない気がした。
厨房へ戻り、ほんの少しだけ味を調整する。
もう一度飲む。
今度は、いつも作ってきた味だった。
店主は店内を見渡した。
完璧ではない。
新品ではない厨房機器もある。
小さな傷のある作業台もある。
カウンターの端には、塗装が少し薄い場所もある。
けれど、どれも自分で選んだ。
予算を考え、店の広さを測り、人の動きを想像しながら一つずつ決めた。
この店は、誰かが完成させて渡してくれたものではない。
迷いながら、自分で作った店だった。
店主は、最後に冷蔵庫の温度を確認した。
問題ない。
電源も確認した。
戸締まりもした。
店の照明を消す前に、厨房を振り返る。
冷蔵庫の小さな運転音だけが聞こえた。
「明日から、よろしくね」
機械に話しかけるのは少し変かもしれない。
でも、店主は本気だった。
入口の鍵を閉めた。
最初にこの鍵を受け取った日から、二十九日。
明日、この店に最初のお客様が来る。