鍵を回すと、「カチッ」という小さな音がした。
その音にしては、背負っているものが少し大きすぎる気がした。
扉を開けると、まだ何もない店の中に、朝の光が差し込んでいた。
壁は白い。
床も新しい。
カウンターはある。
けれど、厨房には冷蔵庫も作業台もない。
あるのは、壁から出たコンセントと、水道の蛇口。
そして、使い方の分からない空間だけだった。
「本当に、ここで店を始めるんだ」
店主は受け取ったばかりの鍵を握りしめ、誰もいない店内でつぶやいた。
頭の中では、すでに営業が始まっていた。
鍋から湯気が上がり、皿が並び、お客様の話し声が聞こえる。
自分が作った料理を食べた人が、少しだけ元気になって帰る。
そんな店を、ずっと作りたかった。
しかし、現実の厨房は驚くほど静かだった。
開店まで、あと三十日。
店主は持ってきたノートを開いた。
必要そうなものを書き出していくと、ノートの一ページがあっという間に埋まった。
「店って、料理だけできても開かないんだなあ」
メニューを考えていたときは楽しかった。
内装の色を決めていたときも楽しかった。
しかし、厨房機器の価格を調べ始めると、笑顔は少しずつ消えていった。
新品ですべてそろえると、用意していた予算を大きく超えてしまう。
数字を何度計算しても、予算が急に増えることはなかった。
電卓は、いつも正直だった。
そこで店主は、中古厨房機器を調べ始めた。
年式、型式、電源、容量、外形寸法。
知らない言葉が次々に出てくる。
一台の冷蔵庫を買うだけなのに、試験を受けている気分だった。
それでも、ページを一つずつ見ていくうちに、少しずつ分かってきた。
中古なら、予算を抑えながら必要な機器をそろえられるかもしれない。
その分を、食器や看板、最初の仕入れに回すこともできる。
店主は空っぽの厨房に立ち、もう一度店内を見渡した。
何もない。
けれど、何もないからこそ、これから一つずつ選べる。
冷蔵庫をどこに置くか。
作業台をどこに並べるか。
どこで仕込み、どこから料理を出すか。
空っぽの厨房は、少し不安で、少し自由だった。
店主はノートの一番上に、大きく書いた。
「まず、冷蔵庫を決める」
それが、店づくりの最初の一歩になった。